雨天結構 ~雨玉夕間の日記~

気ままに日常の出来事、感じたことを書いていきます。詩も載せます。

amazarashiとの出会い

最近課題やら何やらで忙しくて、すっかりブログは放置しちゃってた。久しぶりの更新。

さて、今日は僕が大好きなバンド、amazarashiにまつわるお話。最近はタイアップも増え、2週間後には武道館ライブを控えたamazarashi。悲しみや苦しみの中にいるこの瞬間を「雨曝し」とたとえ、「僕らは雨曝しだがそれでも……」と力強いメッセージを歌に秘める。そんな曲の世界観と込められた思いに何度となく支えられ、助けられてきた。

amazarashiと出会って5年半以上経ち、今なお魅了され続ける僕だけど、amazarashiを知るまでの経緯というのが結構複雑だったりする。今日はそれについて語らせていただく。

 

まず、flumpoolというバンドはご存知だろうか。関西発の4人組のバンドで、代表曲に「星に願いを」「君に届け「証」がある。紅白にも何度かの出場経験がある。今はボーカルの山村さんが喉を壊してしまったため、無期限で活動を休止している。

時は僕が中学生だったころまでさかのぼるが、当時まずflumpoolにハマったのは僕の母だった。「どんな未来にも愛はある」という曲に母は感激し、さらには山村さんに惚れ込み、瞬く間にflumpool(正確には山村隆太)のファンになった。そんな母に勧められ、僕もflumpoolを少しずつ聞くようになったわけだ。そしてこのタイミングで、flumpoolがツアーで地元にやってくることが決まった。すぐさま母は僕と妹の分のチケットまで予約し、当選。ウキウキでライブ会場へと足を運んだ。

 

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ライブは大盛り上がりで、定番の曲から新曲まで幅広く披露された。その中で、僕の人生を「amazarashi」のもとへと舵をきらせたものはライブのMCである。

flumpoolのギター担当である阪井さんは、いわゆる「お笑い担当」である。と同時に、ものすごく天然である。この日のMCでは山村さんによる阪井さんの天然いじりがあった。

山村さん「僕たちラジオをやってるんですけど、こいつ(阪井さん)がメール読み上げる時に「おぎにいさん、おぎにいさん」言ってて。誰やねんおぎにいさんて思ってみたら「お義兄さん」を「おぎにいさん」って呼んでたんやって!」

阪井さん「そら読んでまうやろ、おぎにいさんてー!」

というような内容だったと思う。ここでのポイントは、このMCがきっかけで僕がflumpoolがラジオをやっていることを認知したことにある。

flumpoolのラジオは、toukyouFMをキー局として平日夜10時からオンエアされている「スクールオブロック」の中の1部コーナーで毎週水曜日に15分程度放送されていた。最初は僕は聞く気がなかったのだが、母が「録音しといて」というので、仕方なしに聞いていた。聞いてみたら、面白かった。阪井さんのボケぶり、天然ぶり、それに対する山村さんのツッコミで爆笑していた。気づけば毎週欠かさず聞くようになり、次第に夜10時からラジオをつけ、「スクールオブロック」自体も聞くようになった。

 

中学時代毎日スクールオブロックを聞き続け、中学を卒業して高校生になろうとしていた春、スクールオブロックである宣伝が頻繁入るようになった。「amazarashiがゲストとしてやってくる!!」という宣伝だ。

宣伝は毎日おこなわれ、ラジオパーソナリティーは「メディア初登場!!」「まさにツチノコ級のバンド!!」と煽っていた。それを聞いて「そんなバンドがいるのか、知らなかった」くらいにしか思わなかった。ただ、この宣伝のBGMとして流れていたある曲が知らず知らずのうちに耳から離れなくなってしまった。「ラブソング」だ。

 

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この曲の「オーオーオーオーオーオー」の部分がひたすら脳内で繰り返される。そして僕は「オーオーオー」の曲の正体を暴いてみたいと思い、「amazarashi」とYouTubeで検索をかけた。「オーオーオー」の曲は確か検索結果、上から2番目にあった。

再生して、「これだ」と思った。と同時に「なんだこの世界観は」と思った。今までに聞いたことのないある種の恐ろしさを感じさせる旋律、歌詞。そしてMV。その世界観に一気に引き込まれた。

MVを見て「もっと曲を聞きたい、見てみたい」と思った。そして片っ端からYouTubeでamazarashiを聞いていった。このときのことは今でも覚えている。不器用な少年少女の背中を押す「ジュブナイル」、少年期の思い出とあの頃と変わらない主人公の切なさともどかしさを描いた「夏を待っていました」。「選ばれなかった少年はナイフを握りしめて立ってた」、「つじつま合わせに生まれた僕等」の歌詞は衝撃的だった。

こうしてamazarashiの世界へと入り込んでいくことになる。

 

こう書いてみたけど、不思議な縁だと思う。母がflumpoolを知って、ライブに行って、そこでラジオを知って、ラジオにamazarashiがゲストとして登場する。

いきなりスケールのでかい話をするけど、歴史ってこういう感じで、一個一個の出来事がつながってできていく。戦国時代にしても、桶狭間で信長が勝って、天下統一目前で本能寺で討たれて、秀吉が台頭して、秀吉が死ぬと家康が関ヶ原で勝利して江戸幕府開いて……。僕らにとっては当たり前の、教科書の内容だけど、どれか一つでも違う結果だったら違う歴史だった。僕らは生まれていないかもしれない。そう考えるとすごい不思議。

とこんな頭がおかしくなりそうな話は置いといて、amazarashiに出会わせてくれた母にも、flumpoolにも、スクールオブロックにも感謝。もちろんamazarashiにも。

何か一つ欠けてたってそれはそれで良い人生になってたのかもしれないけど、そう考えだすとキリがないから。歩んできた1本道、どんな形であれ十分面白いよ。

 

 

プレイリスト作るの、すごく楽しい。

最近車を運転するようになって、通学通勤その他いろいろすごくラクになった。車、最高。

 

ところで車を持っている人は移動中のBGMはどうしているのだろうか。もちろんラジオの人もいると思うけど、好きなように音楽をかけてる人は多いよね。自分も後者。

ただ自分の車についてるカーオーディオはどうやら安物のようで、CDの録音はできないみたい。SDカードでの再生もできるっちゃできるけど、MP3とWMAしか再生できないから、SDカードに曲入れる前にいちいち変換しなくちゃいけなくて面倒。iPhoneから有線でオーディオにつなぐ手法もあるけれど、つなぐ場所が見当たらない。

 

そこで自分がとってる手法は、好きなように曲を詰め込んだCDをいくつか焼いて、それを流してる、というもの。

まずiPhoneで車で流したい曲のプレイリストを作って、iTunesを使って空のCDに書き込んでいく。正直変換作業よりも面倒で時間がかかるかもしれないけど、1枚1枚CDが溜まっていくのが何だか楽しくてこの手法をとっている。

そして何より、プレイリストを作るのが楽しい。曲順とかすごいこだわってしまう。ライブのセットリストが大好きなもので、まるで一つのライブを完成させてやろうくらいの意気込みでいつも曲を並べている。この曲の次はこの曲がいいかなとか、この曲は絶対後半だなとか、この曲は前は後半に入れたから今回は前半に持ってこようとか。おかげでiPhoneのミュージックはプレイリストだらけだ。

ちなみにSDカードを使うとしたら、頑張って考えた順番で曲を並べたとしても、オーディオではもともと記録されていた曲の情報にもとづいて順番付けされるため、ごちゃごちゃな順番での再生しかできない。CDだと並べた順番そのままで再生してくれる。

ただ、CDは時間にしてだいたい1時間20分弱程度しか記録できない。曲の候補の中からどの曲を外すか、行われる選抜にも頭を悩まされる。

 

プレイリストについてのこだわりをもう少し述べておけば、自分はCDに焼く前に、何回も再生して「リハーサル」をおこなう。ようするに、続けて曲を聴いて違和感を覚える箇所はないか、もっと良い曲の並びを作れないか、確認するのだ。

曲の並びについては、ちょっとしたストーリー仕立てにしても面白い。例えば「失恋の曲」⇒「前向きな曲」という曲の並びにすることで、失恋を乗り越えるストーリーを描くことができる。これがまた楽しい。

 

最近では、また米津玄師にはまってきたので、車で流す「米津玄師」用のプレイリストを作った。我ながらなかなかの力作である。

ただあまりCDを焼きすぎてもかさばるし、そのうち「作りすぎた……、こんなにいらん」ということになりそうだ。畑につるしてカラス除けにでもすればいいのだろうか。まあ、それでもプレイリスト作りは楽しいし、カーオーディオは変えることはないだろうし、かなりしばらくはCD作りは続けていくことであろう。たとえ時代に逆行する行為であったとしても。

いま心臓は圏外にいます。

逃げてばかりの僕らは胸のどっか隅っこで愛されたいとか思ってるとか思うことを痛い痛いと見下してよそ見をしていたら校庭のフェンスに肩ぶつかってセーターが破けた。穴が開いた海へ行こうドライブしよう波の音ざーざーざー愛されたいくせにここまで来たよ街のはじっこ埠頭まで。振られた振られたどうして僕は怒っているのだろう君に?自分に?とりあえず怒りに任せて遠心力で西環状線に燃えるゴミを散乱させてあーあーやっちまったなって思う反面しめしめとざまあみろと誰に対してか知らないけどとことんざまあみろと思ったんだ。今は圏外にいますからその間に僕が傷つく言葉を作っておいてください僕が傷ついたら君に「平気平気全然大丈夫気にしないで」と送るから街に戻った夕方4時くらいにそうしたら君の勝ちだよそんなに悲しい顔するならじゃあどうすればいいんだろうね誰も悪くないのにねごめんね嘘ついてないよね嘘ついったってそれは君が君自身に正直な証拠だから君は悪くないからねねえねえ大丈夫気にしないで。

大阪

 

家から連れてきたペットボトルを
知らない街のゴミ箱に捨てる罪悪感
神社で靴の中に入り込んだ石ころを
夜の難波の路上に置いて行く罪悪感
こっそり中和し終えたところ
高速道路の底に星空が見える

 

情の込めないものとして
選ばれし紙幣と
さようならの代わりとして
選ばれし手土産を
重ねてできた長い影は雨男
取り壊しが決まったアパートに
ベタベタ足跡をつけて
硬い床に寝転べば
生き損ないの音がした

 

こんな体じゃあ
こんな心じゃあ
この街の車のエンジン音も
手すりを滑らす音も
怒りの音にしか聞こえない
今日はビールがまずい日で
一つ二つと戸を閉めつつ
きっと忘れてきたものがあると
どこまでも引き連れてくると
眠るその瞬間が
罪悪の果て

『ちーちゃんはちょっと足りない』

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ちーちゃんはちょっと足りない』/阿部共実秋田書店

 

阿部共実さんの、『ちーちゃんはちょっと足りない』。

僕が一番好きな漫画だ。

計算ができない、勉強ができない、常識がない……、そんないろいろ足りない中学生「ちーちゃん」を巡るお話。今回はこの漫画の紹介をしていく。

 

*話が全てわかるほどのネタバレは書かないようにしましたが、多少のネタバレは含まれます。ご注意ください。*

 

 

阿部共実さんの漫画と出会ったきっかけは最新作の『月曜日の友達』の2巻。「子ども」から抜け出すことができない中学生の主人公水谷茜が、ちょっと変わった男子中学生月野透と出会い、認め合い、ときには傷つけ合い、成長していく。描かれるのは、青春時代ならではの満たされなさや自己嫌悪。阿部共実さんの描く漫画のテーマはそういったものが多い。この『ちーちゃんはちょっと足りない』も、満たされなさを描いたものだ。

 

 

漫画は全8話からなる。

物語の中心は、南山千恵ことちーちゃん、小林ナツ、旭の仲良し3人組。第1話、第2話ではコメディチックに3人の日常が面白おかしく描かれる。

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24ページより

 

 

第3話は妹思いの千恵の姉、志恵と千恵がショッピングモールへ靴を買いに行く話。南山家は恐らく母子家庭で、厳しい家計のやりくりの中で生活をしているようだ。しっかり者の志恵だが、時折見え隠れする「ちょっと我慢している」描写がつらい。

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58ページより

 

 

第4話からは、主にナツ視点で話が進んでいく。楽しそうに見えた中学生活だったが……。徐々に雲行きが怪しくなっていく。

ナツも母子家庭で、母親はパートでいつも家にいない。そんな家庭環境で育ったナツも「満たされなさ」を抱えていた。

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82ページより

 

 

第5話では、クラスである事件が起こる。この事件をきっかけにナツの「満たされなさ」は加速していくことになる。

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114ページ

 

 

第6話は事件を経てのナツの心境の変化に注目。自己嫌悪や嫉妬、満たされない気持ちから生まれた醜い感情が次々と溢れ出てくる。

下の画像のナツの気持ちは自分も抱いたことがあり、正直、わかる、同情してしまう。

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146ページより

 

 

第7話。この回で事件が収束する。力強い旭の描写は鳥肌もの。それに対して泣き虫千恵が心の内を打ち明けるシーンが涙を誘う。

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162ページより

 

 

最終話の第8話では、千恵が行く先を告げずにどこかへ行ってしまう。ナツが千恵を探しながら負の感情を巡らせる。

街中で楽しそうに友達と過ごす旭を見つけたときのナツのセリフが個人的にこの漫画で一番好き。ここの描写も読むたびにドキドキする。

千恵の抱く「満たされなさ」の先とナツの抱く「満たされなさ」の先。二つが重なり合うクライマックスは必見。

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203ページより



簡単にいくつかのシーンも交えながら『ちーちゃんはちょっと足りない』を紹介してきた。(直撮りで申し訳ない……)

少し暗いテーマを描いた作品ではあるが、ナツや千恵が心の底から吐き出す「満たされない」思いに心を動かさずにはいられない。この漫画で描かれる自己嫌悪や嫉妬といった醜い感情は、満たされなさを抱えた経験のある人ならば、抱いたことがある感情なのではないだろうか。そういった醜い感情に全力でぶつかり、思い切って表現されている点が、この作品の醍醐味であろう。

 

「満たされなさ」の中で迷いながら、苦しみながら生きている姿に、あなたは何を感じるだろうか。気になった方は、ぜひ手に取って読んでみてほしい。

(無粋な話だが、ブックオフや中古漫画屋で並んでいるところも多い)



 

 

(漫画のシーンを直撮りでのせてきたけど、引用の扱いでのせたつもりだし著作権は大丈夫だよね……?)



言わないでほしいこと

この前友人2人と遊んでいて少しショッキングな出来事があった。

「日本の貧困なんてたかが知れてるよなー」

「うんうん、アメリカの格差と比べたらこれっぽっちのもんだよ」

 

何の話の流れでこの話になったのか忘れたけど、この2人の会話を聞いてちょっと残念な気分になってしまった、という出来事。

 

日本にも所得格差ある。

2008年のデータだけど、相対的貧困率(国民を所得順に並べて真ん中の人の半分しか所得がない人の割合)は0.157。ジニ係数(1に近づくほど所得格差は大きい)は0.329。アメリカは前者は0.170、後者は0.380.社会保障の整備が進んでいるデンマークは0.053、0.232。日本にも貧困が存在することは明らかだ。生活保護、子どもの貧困、ひとり親、非正規……。貧困にまつわる問題は多い。

(参考 『分断社会を終わらせる』井出英策・古市将人・宮﨑雅人、筑摩選書)

 

 

真面目な話になってしまったんだけども、何が言いたいかと言えば、(2人に対して)「そんなこと言わないでほしい」ということ。

確かにアメリカより貧困層は少ないのかもしれないけど、決して少ないわけでもない。

たとえ少なかったとしても、いないわけではない。

 

彼らが上記のような発言をしてしまった背景には、きっと「自分は幸せ」なことがあると思う。欲しいものはある程度手に入って、行きたいとこには行けて、それが当たり前。きっとみんなそうだと信じている。当たり前じゃない人がいるかもしれないが、完全なる他人事。

幸せなのは決して悪いことじゃない。絶対幸せなほうがいい。でも幸せでいると、幸せじゃない人は見えにくくなってしまう。

 

こう書いてきたけど、貧困な人に比べたら自分もまだまだ恵まれているほうだ。最低限のものは手に入る。でも2人ほど裕福ではないので、欲しいものが完全に手に入るわけではない。

もしかすると、2人の会話を聞いて思ったことはただの嫉妬なのかもしれない。だからか、この会話をしているときに反論ができなかった。

 

ネットの掲示板とかで時折見かける、生活保護受給者に対するバッシング。

生活保護支給費はどんどん下げるべき」「いいよなー、働かずに金もらえるなんて」

結局、バッシングしている人も恵まれている人なんだろうな。

生活保護に関しては「給付費でパチンコに行ってた」とか「不正受給」といったニュースでイメージが悪くなっている。それが原因でバッシングがあるんだろうけど、そういったケースってほんの一握り。特に不正受給なんて「賃金の申告忘れ」のケースがざらだ。

そんなほんの一握りの部分に着目して、本当に生活保護を必要として困っている人(大多数)を撒き沿いにしてバッシングをする。

こういった「幸せな人が不幸せな人を攻撃する」構図が嫌いだ。

2人の会話も、本人たちにそんな意図はないと思うけど、この類のものに聞こえてしまったのかもしれない。

「自分は幸せだから不幸せな人がいたっていいや」。そんな無責任感。

 

ただ、不幸せな人も幸せな人を妬んでいたり、よく思ってなかったりするかもしれない。自分だったら、絶対嫉妬する。なんで自分は、なんであいつは、って絶対なる。というか、今でも若干なってるかも。

 

でもこういったことを乗り越えて必死に生きることができる人が、どんな人よりも強いと思う。恵まれている人にも挫折、苦労はあるし、恵まれてない人は境遇に対しての苦悩、苛立ちがある。それにいかに立ち向かうか。

嫉妬、いがみ合いは自分が満たされていないから起こる。だから残念だけど、正直しょうがないと思う。人間の性だ。そして現代のこんな日本社会で完璧に満たされた生活を送っているなんてそうそういない。

仕方ないからといって、暴動が起きるまで攻撃するのはダメだけどね(笑)。難しいけど心に留めておくことが一番いい。バッシングとか、攻撃したらしたらで満たされた気になって、結局何もしないって人が、なんだかいそうだから。

とりあえず、嫉妬もいがみ合いもほどほどにして、前に進みましょうよ、目の前のやるべきことをやりましょう、頑張りましょう。

 

 

みんな、頑張って必死に生きてるんだよ。

だからそんな必死に生きている人を否定するようなことは言わないで。

これがたぶん、言いたかったことです。

 

 

 

LINEが怖い

LINEが怖いんだけど、わかる人いる?

 

LINEというか、SNS全般怖いかも。相手の表情がわからない状態で会話するってすごい怖い。

例えば、「明日16時集合ねー!」と送ったとする。返信は「わかったー」。

普通の一見問題なさそうな文章だけど、考えてしまう。

「“!”がついてない?!もしかして明日遊びに行くの嫌なのかな……」

いつも「!」つけない人だと「そういう人なんだなー」で済むけど、よく語尾に「!」つける人だったらもう心配。返信したときはただテンションが低かったのかもしれない、友達との会話あなどしながらの返信で適当に済ませた結果なのかもしれない。でも、相手の考えていることが気になってしまう。

こういうことがしょっちゅうあるので、SNSはストレスがたまる。送る側としても、相手の気に障る文章でないか、誤解を招かないか、じっくり読んで推敲してから送っている。すごい面倒な人間だ。つまりは、自分はSNSに向いていないんだと思う。それでも楽しさや面白さ、何より便利さが勝るのでやめないのであるが。

 

しかしこうなったことにも一応、原因がある。高校のころの話になる。

高校3年の時、付き合っていた彼女がいた。彼女とは毎日LINEをしていた。

しかし、あるとき彼女のLINEが急に素っ気なくなったのだ。いつも語尾には絵文字、「!」がついているのだが、それこそ「わかったー」のような文章。

「何かあったの?」と聞いてみた。すると彼女はメッセージで返事をせずに、突然電話をかけてきた。電話に出るなり、彼女はこう言った。

「距離を置きたい。」

それ以降彼女と会話をすることはなくなり、数週間後には別れを告げられた。つらかった。

 

この経験がトラウマとなり、素っ気ない文章を見ると相手の心情を気にしてしまうようになってしまった。とはいえ、別れ話にはよくありそうなシチュエーションであり、関係を冷めさせた原因の多くは受験勉強を理由に彼女とのLINEなどの時間を減らしていた僕にあった。彼女が悪いわけではなく、自分のチキンな性格故にこの経験がトラウマとして沁みついてしまったのであるということをここに断っておきたい。

 

みなさんはどうだろうか。SNSのこういった問題は「あるある」らしいので、僕ほどではないが共感してくれる方もきっといるだろう。

 

ところで、SNSグループトークで「空気を読む」ことが暗黙の了解となっているという話があることをご存知だろうか。今や中学生高校生、早ければ小学生もスマホを持ち、LINEをする。彼らはグループトークでは場の雰囲気を壊さないように気を配る。もしその雰囲気を壊してしまったらグループからはぶられ、いじめられてしまうかもしれない。

ただ発言の内容に気を付けるだけではない。例えば、LINEで友人からメッセージが届いているが、スマホのアプリゲームをしたり、ツイッターでつぶやきを投稿したりしたとしよう。すると、「なんでLINE送ったのに、返信しないでゲームしてんの?ツイッターはするんだ?」と思われることがあるという。(アプリゲームはログイン時間がわかるのでバレる)それがまたハブリやいじめの原因となるかもしれないと、みんなびくびくしているらしい。小中高生もスマホで多大なるストレスを抱えているといえよう。

 

本当にしょうもないことでストレスを抱えてるなーと思う。でもそのしょうもないことが、小中高生にとっては自分を守るためには欠かせないこととなってしまっている。

そして自分も、人に嫌われているかどうか気にしてしまうがために、ストレスを抱えている。

ある芸人さんが「人に嫌われることを恐れる時点でもうダメ。それは自分が嫌われていないという前提にある。その前提をなくせば嫌われる嫌われないはどうでもよくなる、というか考えなくてもよくなる」というようなことを言っていた、というのをまた詩人の最果タヒさんのエッセイで読んだ。確かにそうなんだよなー。そう考えると自分って「まだ人に嫌われていない」って思ってて、そうあり続けたいがために言いたいことは言わず空気を読んで、なんだかせこいな、と思う。

でもやっぱり嫌われることは怖い。嫌われたときにどうなるかは何となくだけどわかる。自分は豆腐メンタルなので、今以上にストレスを抱えた毎日を送ることになりそうだ。ポジティブにはなれないと思う。

 

何の話だっけ、SNSか。SNS、一度立ち止まって眺めてみると、めんどくさいこと、よくない点、自分の苦手なところ、どんどん浮き上がってくると思う。「会話を交わすだけのツール」であること。それ以上に立ち入ることで、余計な感情とか、結果として暗黙の了解が生まれてくる気がする。でもどうしても普段人と会って会話するレベルを想定してしまうから、「会話を交わすことだけ」はきっと不可能。表情がわからないからこそ相手の心情とか、空気とか、いろいろなものを要求してしまう。それがうまくいくはずがないから、ストレスが溜まっていく。

どうすればいいんだろうな。

気にしないことが一番なんだろうな。割り切れる人間になりたい。

 

ところで、2時間前にグループにメッセージを送ったんだけど、まだ返信がきていない。もしかして空気壊しちゃった……?変なこと書いちゃった……?ああ、不安になってきてしまう。

LINE恐怖症を克服できる日はまだまだ先になりそうだ。