amazarashi Live Tour 2019 「未来になれなかった全ての夜に」 感想(5月19日 金沢 本多の森ホール)
amazarashiのライブに初めて参戦したのは、2014年の「夕日信仰ヒガシズム」ツアー(名古屋)で、それから2017年の「メッセージボトル」ツアー(名古屋)、昨年の「地方都市のメメント・モリ」ツアー(金沢・大阪追加)と参加してきました。もはや毎年恒例となりつつあり、ツアーの情報が届いてテンション爆上がりして、ライブ終了後数日間は虚無感に襲われるというのが一連の流れです。
そして今年も「未来になれなかった全ての夜に」ツアーに参戦してまいりました。5月19日金沢 本多の森ホール、7月5日大阪追加公演 グランキューブ大阪の2か所です。というわけで、その感想を書いていきます。
初のリリースの無いツアーということで、未発表曲が演奏されるのか…、はたまたあまり演奏されてこなかったレア曲が日の目を浴びるのか。当日まで思う存分ワクワクさせられたものでありました。
それでは、まず今回は金沢から。
※セットリストを記載しています、ご注意ください。
5月19日石川 本多の森ホール
昨年に引き続き、「息子がカラオケでamazarashiを歌いその歌詞に衝撃を受けファンになった母」を連れての参戦でした。アポロジーズの2回目の選考で予約し、席は前から7、8列目程度でした。
前日に新潟、からの金沢ということで、メンバーにとっては2日連続の演奏です。にもかかわらず、抜群の迫力、抜群の破壊力。去年もそうでしたが、「昨日もライブしました感」を全く感じさせない演奏でした。僕の語彙がしょぼいのですが(笑)、とにかく疲れを感じさせない、そんな全力のライブだったのです。秋田さんの調子も絶好調、いつにもなくノリノリでした。
この本多の森ホール、兼六園より少し郊外の方へ進んだところにあるキャパ千数百人程度の会場なのですが、綺麗で良い会場なのです。メンバーにとっても演奏しやすい会場なのでしょうか。
ただいつも気になる点が…、良い会場すぎるからか、音の反響がすごいんです。つまり、めちゃくちゃ爆音なのです。爆音すぎて歌詞が聞き取れない、せっかくの演奏がめちゃくちゃに聞こえてしまう、ということも。昨年は数日間耳鳴りがすごかったです、今年は大丈夫でしたが。いつもの音量のはずなのに、この会場の作りのせいか大きめの音になっちゃう、ということなのでしょうか。この点は改善してほしいところ……。
さて映像の演出ですが、今年も進化してました。曲によっては紗幕とメンバーのバックのモニターの2つを使って映像を流します。これまでもとられてきたやり方でしたが、今ツアーではバックのモニターが大きめのものになった気がします。そしてバックで映像を流しつつ、紗幕ではデンと歌詞のみを投影する。昨年のツアーから増えた歌詞を流す映像ですが、さらに歌詞を生かすための贅沢な演出も見られました。
そして紗幕にはリアルタイムで撮影された秋田さんのジルエットがデカデカと映し出されるという演出も。「後期衝動」、「季節は次々死んでいく」、「未来になれなかったあの夜に」の3曲だったと思います。
セットリストは、とにかく夢中になる曲の並びでした。ベスト盤や最近リリースされた曲を聴いておけば網羅できるという、意外にも初心者向けのセットリストでもあったかもしれません。
それでは、記憶を頼りに詳しく感想を書いていきます。
暗転、「後期衝動」からライブはスタートしました。紗幕には秋田さんの全身がデカデカと投影されます。「これが新たな演出か!」と一気に引き付けられました。「青森から来ました、amazarashiです!!」、お決まりの挨拶に拍手と歓声。鳴り止まないうちに次の曲のイントロが流れ始めます。
「リビングデッド」、「ヒーロー」。この流れかっこよかった。最高にドキドキでした。「リビングデッド」の今から始まってくんだって感じと、「ヒーロー」で加速していく感じが。心臓バクバクでした。本当、どっちの曲もかっこいい。生演奏なら尚更です。
そしてMC前口上を挟んで「スターライト」。ライブの締め曲として活躍してきましたが、ここでのタイミングでもテンション上がりました。「未来になれなかった夜」をこれから巡る旅が始まるのです、スターライッスターライッ。ただ席が端だったもので、バッグモニターの映像が少し隠れて見えなかったのがちょっと残念でした。
5曲目は「月曜日」。月曜日もう一生やらないかと思ってました、びっくり。月曜日大好きなんですよ、もう感激。『月曜日の友達』の彼女彼らもそうですが、秋田さん自身も人と自分を比べて息苦しい思いをしながら青春時代を過ごしていたのでしょうか。映像メメモリのときとちょっと変わってたかな。次はぜひDVDにいれてくださいね。約束しよう。
ここからは、「たられば」、「さよならごっこ」、「それを言葉という」と続きます。「たられば」は映画『青の帰り道』の主題歌ということで、青春つながりでこの流れだったのでしょうか。
「さよならごっこ」、映像は「MVのフルバージョンが見れるのか!」と思っていましたが……。2番からは映像の使いまわしが目立って、ちょっと残念でした。
「それを言葉という」は僕の記憶ではまんまCD音源でした、すごい。
「そんな夜のことです」と前口上を経て流れたのは「光、再考」。虚無病ライブを彷彿とさせる映像に、歌詞がぽつりとぽつりと流れていきます。ラストの「オーオー オーオーーー」は圧巻。秋田さんの力強い雄たけびと共にステージが眩しく照らされていきます。「光、最高」な演出に拍手喝采でした。
後半戦は「アイザック」から。煙がもわんと上から下から広がるアイザックの映像、好きです。シングル曲のポエトリーリーディングをライブでやるのはすごく珍しいですよね。
そして間髪入れず「季節は次々死んでいく」。定番の曲ですが、今回のツアーテーマにもピッタリの曲です。映像はおそらくおニュー。サビの映像では、雨のように空から落ちてくる歌詞が、歌うデカデカ秋田さんにぶつかって地に落ちていきます。
続いては「命にふさわしい」。そろそろ外されるかと思っていましたが、まだ現役でした。大好きな曲なのでありがたい……。「命にふさわしい」はいつもその世界観に引きずりこまれてしまいます。賛否両論あるMVの映像ですが、ラスサビで「警告画面」が紗幕いっぱいに出てラストの盛り上がりに入っていくのは正直最高だと思います。危険地帯に突入していく感じ、引き込まれずにはいられません。「ひかりとかげっ!」いただきました。
前口上を挟んで「ひろ」に入ります。映像のない、スポットライトがメンバーに当てられていくだけのシンプルながら曲にぴったりの演出は、夕日信仰ヒガシズムツアーから恐らく変わっていません。そんな演出も手伝って会場全体がすっかり演奏に入り込んでいるようでした。「あの夜からずっと僕を見張っています」と秋田さんはひろについて語りました。そんなひろの存在を思い出すことで、夜を越えてきたのかもしれません。
そして「空洞空洞」、間髪入れず「空に歌えば」。「空洞空洞」がセトリに入っていたのはびっくり。外されるかと思っていました。歌詞の「亡霊と僕ら生きてる」の亡霊は、この曲の流れでは「ひろ」のことを指すのでしょうか。
ということは、「空に歌えば」での「君」も「ひろ」のことなのでしょうか。いろいろ憶測が飛んだ流れでしたが、「空に歌えば」で会場のテンションは最高潮です。秋田さんの揺れも最高。映像は前回のツアーと同じくMVだったのですが、今回はラスサビで会場内やステージを映す演出はありませんでした。代わりに心なしかしょぼい映像になっていました(笑)。ラスサビなのだから、もうちょいかっこよい映像が欲しかった、というわがままです。
「ライフイズビューティフル」は、このライブ前に公式ツイッターで演奏時の写真がアップされており、唯一セトリに組み込まれていることを知っていました。セトリは一切見ないよう頑張っていたところ、「ネタバレされちったよ!」て感じになりましたが(笑)。写真にも写っていましたが、何と言っても七色の光を使った演出が目を引きました。こんなカラフルな演出は初めてだったのではないのでしょうか。「何がどうなって ここに立ってるんだ」と「きっと場所なんてどこでも良かった」の歌詞が好きです。
演奏が終わり、秋田さんにスポットライトが当たればMCの時間です。MCは、何だかマラソンでゴールして、息切れの中インタビューをされているような話し方に聞こえました。「武道館やって、すごくすごく、遠く…遠くに、来たなって、思って、武道館でライブやって、終わって、そんな風に、感じて……、それから……」詳しい内容は覚えてないのでツイッターの情報を参考にしつつですが、そんな感じのMCでした。とにかく、若干息切れしているような話し方から伝わってきたのは「夢中で演奏をしてきた」ということ。まさに走り抜いてきたスプリンターです。その意味ですごく嬉しいMCでした。あとは「次のアルバムのことは全然見通しが立ってないんですけど……」と言ってて、ちょっとがっくりしました(笑)。
MC、「言葉を取り戻すために!」と前口上を経て、「独白」が流れます。武道館で衝撃をくらったあの曲です。ただ、正直武道館以来音源を聴きすぎて、お腹いっぱいになりつつあります。しかし、今回は「独白」で終わりではなく、続きがありました。
「言葉を取り戻せ!」独白を終えてから、間奏が続きます。「一体何が、何が始まるんだ??」とステージにすっかり釘付けです。「未来になれなかった全ての夜に!」と秋田さんが叫び、ギターをかき鳴らした後、静かなイントロが流れ始めました。これは、新曲ではありませんか……!ツアーの表題曲「未来になれなかったあの夜に」です。秋田日記で1番2番の歌詞が投稿されていたものでした。最初は少し暗い雰囲気の曲でしたが、サビに向かうにつれ徐々に盛り上がりを見せていきます。サビは癖になるメロディーで、1度聴いただけで頭から離れなくなってしまいました。ラスサビは「ジュブナイル」を彷彿とさせる歌詞でした。そして最後「ざまあみろ!」とギターを上下に力強く鳴らしていた秋田さんの姿が印象的でした。音源聴きたすぎるので、早くアルバムの見通し立ってほしいです。はーやーくー。
曲が終わると、締めのMCです。曲のテンションを維持したままの、力強い口上でした。またもやスプリンターを感じました。注目すべきは最後の最後の締めですが、前回の締めは「言いたいことはこれで全部。ただ、最後に一つだけ……ありがとうございましたァ!!」ジャーン! でした。前回の締め方好きです。
今回は「言いたいことは言うべきです。だから最後に、今言うべき言葉を……ありがとうございましたァ!!」ジャーン! 二番煎じ臭がする気もしますが、今回も好きです。会場は拍手と歓声に包まれ、自分も手が真っ赤になるほど拍手をしました。「ありがとう!!」と叫びたいところでしたが、隣に母がいます。恥ずかしいので叫びませんでした。
大変失礼な話になりますが、自分はどんなバンドのライブでも「中だるみ」をしてしまいがちです。あるとき集中が途切れてしまい、つい演奏から気が散ってしまうのです。amazarashiでも例外ではありません。しかし、今回のライブでは「中だるみ」を感じませんでした。それほど夢中にさせられ、演奏・演出に圧倒された時間だったのです。
しかしながらついつい秋田さんにばかり目がいってしまい、メンバー全員をしっかり見ていたと言ったら嘘になります、ごめんなさい……。それでもやはり、メンバーが一体となった、心に響く力強い演奏があったからこそであることには違いありません。何だか偉そうですね、本当にごめんなさい。
さて、母の感想ですが母も圧倒させられたようです。「秋田さんの心の叫びが伝わってきた」と言っていました。母も苦労人で、秋田さんの人生観に共感したり、秋田さんの叫びに心動かされることが度々あるんだとか。母にも満足してもらえて良かった。
音響や映像、不満はちょいちょいありましたが、そんなもの消し飛ばしてくれる、とにかく最高のライブでした。
金沢の感想は以上です。長くなってしまいましたので、大阪追加公演の感想はまた気が向いたら書きます。今回よりは短めになりそうですが、書きたいことがまだまだあるのです。
それでは、それが未来になれたときに会いましょう。(全然上手くない)
セットリスト
1.後期衝動
2.リビングデッド
3.ヒーロー
4.スターライト
5.月曜日
6.たられば
7.さよならごっこ
8.それを言葉という
9.光、再考
10.アイザック
11.季節は次々死んでいく
12.命にふさわしい
13.ひろ
14.空洞空洞
15.空に歌えば
16.ライフイズビューティフル
17.独白
18.未来になれなかったあの夜に
amazarashiの曲について語る
前回の更新、2月じゃないですか。こんなに放置していただなんて。お久しぶりです。
突然ですが、今回から文体を「敬語」にします。やっぱり自分にはこの文体の方があってる気がするのです。
さて、今日は僕が愛してやまないamazarashiの曲についてのんびり語っていこうと思います。適当に曲名あげて、自分なりの解釈とか思い入れとか語っていきます。
高校時代一番好きだった曲です。力強いメッセージで少年少女の背中を押してくれる応援歌。
君が君を嫌いな理由を 背負った君のまま成し遂げなくちゃダメだ
「自分のコンプレックスを抱えたまま自己実現する、というのが本当の意味でのハッピーエンドだ」(BEST ALBUM「MESSAGE BOTTLE」 / amazarashiより)と秋田さんは言います。思春期は自分の嫌いなところがひどく目について、本当に嫌でたまらなくなる時期だと思います。
自己嫌悪と葛藤を重ね、後ろ向きになってしまう人、消えてしまいたくなる人は少なくないはずです。そんな苦悩の日々を「間違いじゃないよ」と肯定してくれるような、そんな曲です。
『物語は始まったばかりだ』このフレーズに何度と涙ぐんだことか。
世に放たれたタイミングはちょうど僕がamazarashiを知った頃でした。「少年少女」に焦点を当てられていることもあり、当時高校生の僕にはどストライクでしたが、おじさんファンの間での反応はイマイチだったんだとか。
リリースからしばらくはライブの定番曲となり、今はフェスで歌われることが目立つようになりました。自分が生で聴いたのは唯一ヒガシズムツアーだけなのですが、このときの前口上をよく覚えています。「あんたの明日に幸あれ!ジュブナイル!」
またツアーで演奏してほしい一曲です。欲を言うなら前口上付きで。
②季節は次々死んでいく
言わずと知れた某アニメのED。タイアップが決まった時は本当に衝撃でした。当時、東京喰種大好きな友人とめちゃくちゃ盛り上げった記憶があります。これがきっかけでamazarahiを知った人も多いんじゃないかなと思います。
忌まわしき過去を心のどこかに留めておきながら、それでも進んで行く。そんな姿を歌ったamazarashiらしい一曲です。
秋田さんには、東京での音楽活動に失敗し、引きこもりになってしまったという忌まわしい過去があります。しかし音楽活動を再開し、メジャーデビューを果たし、今では人気バンドです。
この曲を作ることになったきっかけは「レコーディングやライブで東京へ行くときの場違い感を感じたこと」とのこと。必死に音楽活動を続けていく中で自然に季節は巡り、忌まわしき過去はいつの間にかずいぶん遠いものになり、かつてとは全く違う景色の中にやって来たのです。場違い感は、その「いつの間に」から来たものかもしれません。
しかし、それは決して「ネガティブな意味」ではありません。むしろ「ここまで来れたんだ」とふと思えた、そんな喜びに近いものだと思います。
「それでも」と日々を生きてきた、それは間違いではなかった。amazarashiが「アンチニヒリズム」を掲げながら歌い続ける意味が詰まった曲です。
メロディー先行で作ったとのことですが、そのメロディーにしっかり歌詞が乗っている感じ。サビの詞の語感が特に好きです。
amazarashiばかり聴いてるからかそう思わないのかもしれませんが、この曲のメロディーって独特らしいですね。「変なメロディー」って言われたこともあります。確かに、初めて聴いたときは「なんだかまた歌いにくそうな曲だな」とは思いましたが(笑)。
ライブでは定番中の定番として活躍。リリースから早数年経ちましたが、知名度的にも、amazarashiらしい曲としても、代表曲として今後もまだまだ活躍しそうです。
③つじつま合わせに生まれた僕等
僕をamazarashiにドハマりさせたきっかけが、この曲でした。母をamazarashiの世界へ誘ったのもこの曲です。
僕の中の勝手なイメージですが、amazarashiの曲の語り手の居場所は、狭くて暗い部屋のような気がしています。(まさにつじつま2017のミュージックビデオがそんな感じですね。)けれど、その場所で、自分が生きていくための希望を掬いだすような、amazarashiの曲はその一部始終を見ているように感じられるときがあります。この曲もそんなイメージです。
「小さな何でもない情景から始まって、それが今現在の自分と繋がって、最後に未来を描く、ということがやりたかった」(BEST ALBUM「MESSAGE BOTTLE」 / amazarashi)と秋田さんは言います。正直、1番のサビの「少女の頭が吹き飛ばされて、そこに木が立って、街が出来て…」ってくだりは、意外と秋田さんじゃなくても書ける気がします。この曲の重要なポイントは、それが「今現在の自分」へと繋がっていくための過程にあるという点ではないでしょうか。そして最後は「せめて人を一生かけて愛する」という希望にたどり着きます。
語り手は狭くて暗い部屋にいながらも、生きる希望を探すべく壮大な展開を進めていきます。これがこの曲の魅力だと思います。
匿名を決め込む駅前の 雑踏が真っ赤に染まったのは
夕焼け空が綺麗だから
つじつま合わせに生まれた僕等
このフレーズが僕をamazarashiの虜にしました。
何と言っても「人殺しと誰かの不倫と」からこのフレーズに至るまでの2番のサビへの流れが最高です。
風刺も混ぜ込まれ、さりげなく「ろくでもない世界で」というフレーズも混ぜ込まれ、「amazazashiの形を決定づけた」と言っても過言ではないこの曲。
「ラヴソング」的な側面も持ち合わせているとも言われ、そういった意味でも魅力的すぎる曲です。
④ラブソング
amazarashiの世界に足を踏み入れるきっかけとなった曲です。(amazarashiとの出会い - 雨天結構 ~雨玉夕間の日記~参照)
最初は歌詞の意味も深く考えず、曲の世界観にひたすらのめり込んでいました。
常套句を並べた恋の歌に一石を投じるべく、世に放たれた曲です。個人的には「アノミー」の延長線上にあります。
常套句を並べるとするなら、「好きでしょうがないよ」とか「抱きしめたいよ」とか「一生一緒だよ」とか、そんな感じでしょうか。
ここからは僕の私見が入りますが、カップルが「ずっと一緒にいようね」とか「最高の彼氏(彼女)だよ」とか言っておきながら、突然飽きが来て、「もういいわ、さよなら」と別れてくパターンが結構あるんじゃないかなと思います。恋は盲目とも言いますし、しょうがないことなのかもしれませんが、何か違うような気もします。
この現象をamazarahiの「ラブソング」風に言うならば、「愛を消費している」のかもしれません。恋愛が、後先を考えず、現状を満たすためだけに行われます。そのために、本来なら重みのあるはずの言葉が容易く使われ、「幸せの幻想」を作り出します。そうやって愛が消費されているような気がします。
もう少し曲に沿った解釈をするならば、「愛を買う=常套句を並べたラブソングを買う」ということでしょうか。お金を払えば、幸せの幻想を作り出せる魔法の言葉が詰まった愛の歌が手に入るのです。これは「急いで買いに行かなきゃ」ですね!!
そもそもこの曲は「未来は無いぜ 陽も射さない」という強烈なフレーズから始まります。未来に期待できない時代だからこそ、「愛こそ全て」だからこそ、愛の意味についてもう一度問い直さなければならないのです。
「つじつま合わせに生まれた僕等」と結びつく部分がありますね。
この曲のイチオシポイントは、やはりラスサビの畳みかけですよね。「急いで買いに行かなきゃ~愛を買わなくちゃ」の皮肉炸裂ポイントが毎度突き刺さります。
そういえば時折思うのですが、「愛を買う」というフレーズは「ソシャゲの推しキャラのために課金しまくる」(あんまり詳しくないので若干適当ですが)っていう状況にも当てはまる気がするのです。秋田さんはどう捉えているのか、気になります。
⑤命にふさわしい
この世で一番好きな曲です。
ニーアオートマタとのコラボを通じ生み出された曲ですね。ニーアオートマタは体験版を友人にやらせてもらったことがあります。PS4持ってないんですよね……ホシイ。
「世界を滅ぼすに値するその温もりは」「世界を欺くに値する僕らのこれまでは」
描かれるのは時折曲のテーマとして挙がる「対 世界」。ではなぜ世界と対峙することになってしまったのでしょうか。
秋田さんは、アポロジーズにてこの曲の出発点を「大切なものを奪われたとき」と語っています。恋人、友人、夢、そういった大切なものを傷つけられ、奪われ、失ったときに 「世界を滅ぼすくらいの怒り」を覚えるのです。みなさんは大切なものを失った経験はあるでしょうか。
喪失は悲しく、悔しいものです。しかし大切なものを守るためには、悲しんでばかりはいられません。怒りをもって、世界に立ち向かわなければなりません。それでも失ってしまったことに対する悲しみを振り払うことができないのです。このもどかしさを「心さえなかったなら」と叫びます。
そしてこの曲を一貫するのは「全てを投げ出してまで大切なものを守り抜く」という語り手の強い思いです。「それこそが 命にふさわしい」のです。
これまでの喪失だらけの人生を回顧しながら、「けれどもそれで終わりじゃなかったはずだ」「この生き方は間違いじゃなかったはずだ」と一握りの希望を見出す。僕は「命にふさわしい」をそんな曲だと思います。
ライブでは常連の曲。「光と陰」なのですが、秋田さんのそのときの調子やテンションによって歌い方が変わる気がします。今までで一番印象的だったのは、最後の最後で全力を出し切ってきた、メッセージボトルツアーの「ひがりどがげ!」です。メメントモリツアーで聴いた突き抜ける高音「光と陰」もすごい良かったです。武道館では「ひかりとかげっ!」で、今後はその歌い方の感じで行くんでしょうか。
そうそう、調子が悪かったメメモリ大阪追加公演のすごい苦しそうな「びがりどがげ!」も……忘れられないです(笑)。
さて、以上5曲について語ってまいりました。あまりマニアックな楽曲ではないですが、いずれも何らかの思い入れがあって好きな曲です。勝手な解釈が見られたと思いますが、どうかお許しください。
amazarashiにハマってもう6年も経ち、時の流れの速さに驚きです。と同時に、6年もハマらせてくれるamazarashiに出会えて感謝感謝です。
来月ツアーの追加公演行くのでそれもまた楽しみ。ライブの感想も書きたいですね。あ、ホテル予約しなきゃ。
とまあ、何とも面白みのない締めくくりですが、今回はこのあたりで失礼します。次回は、気が向いたら更新ってやつですね。
「最近の若い子は・・・」
先月、バイト先で起こった出来事だ。
同い年の21歳の子(仮にAさんとする)が、店長にキツく言われたことがきっかけで、翌日からバイトに来なくなってしまい、そのままやめてしまうということがあった。
ちょうどインフルエンザが流行していたときで、ほぼ毎日シフトに入っていたおばちゃんがインフルにかかってしまった。そこで店長がAさんに「もう少しシフト入れない?」とお願いしたらしい。Aさんはそれを断り、そのときに店長が「なんで協力してくれんのや??」と怒りっぽく言ってしまったのだ。
AさんからのLINEによれば、その店長の言葉でひどく傷ついたということだった。(Aさんにも多くシフトに入れない事情があった)それに加えて、以前シフトでもめたことが何度かあったり、本部の身勝手さに疲れたり、と我慢の限界に達していた。そして、やめることを決断したという。
バイト先では、パートのおばちゃんたちがこの話題を口にした。中には「店長がキツく言うから・・・」というおばちゃんもいたが、Aさんがやめたことに否定的なおばちゃんもいた。
「今人がいないときなんだから、なんで今やめるんだろう・・・」
「やっぱり今の子は、なんだかねえ・・・」
バイト先には少し年上の25歳の社員の人もいる(Bさんとする)。次はそのBさんにまつまる今日の出来事だ。
Aさんがやめた分を埋めるため、違う店舗に勤務するBさんが助っ人として駆り出されるようになった。そしてBさんは週4日3~4時間の超過勤務が発生するようになってしまう。それが半月ほど続いた今日、バイト先に行くと、Bさんのメモ書きが置いてあった。「シフトを減らしてもらいたい」というお願いの内容だったが、いくつかの理由も添えられていた。
少し鬱っぽくなったから、心身ともにきついから、家族に心配されているから……。
やはりパートのおばちゃんたちはこのメモのことに触れた。
「直接口で言うべきなのになあ」
「今の若い子はねえ・・・」
以上バイト先の話を書いたが、どうだろう。僕はおばちゃんたちを悪く言うつもりはないのだが、どちらかといえば、AさんやBさんの気持ちの方に寄り添ってしまう。理由は年が近いから、だろうか。年が近いから、AさんやBさんの気持ちがわかる。かく言う自分も、数年前の以前のバイト先で店長に怒鳴られて、どうしようもなくひどく落ち込んだという経験があったりする。
おばちゃんたちの「最近の若い子は・・・」に続く言葉は、「たるんでる」とか「しっかりしていない」だとか「甘ったるい」といったネガティブな言葉だ。ちなみに「これだからゆとり世代は・・・」みたいな言われ方もする。
今回のAさん、Bさんの話の場合は「最近の若い子は、弱い」だろうか。これは聞いた話だが、友人の大学に講演に来た人事の人が「最近の若者は怒られ慣れていない」と、若者の討たれ弱さを嘆いていたという。大人たちは今の若い子の「弱さ」に不満気なのだ。
しかしながらイマイチ、ピンとこなくて考えていたことがある。「弱い」っていうけれど、「なぜ弱いのか?」ということ。逆に、「なぜ大人たちは強いのか?」ということだ。
この疑問には「大人たちもかつては若者で、そのときは弱かったんだよ」という答えがまず考えられるが、「自分は若い頃もう少ししっかりしていたよ」と胸を張る大人が多いので、今回は大人たちの言い分を信用してみるとする。
疑問を考えるために、先ほどのAさんやBさんと同じようなシチュエーションに出くわしたら、大人はどう対処するのか、脳内でシミュレーションしてみたい。
もし店長に怒鳴られたら……。超過勤務が続いたら……。
考えていたら、自分に一番近い大人の存在を思い出した。母だ。
僕の母はある小売店パートで、仕事の話や愚痴をよく聞かされる。
母も仕事で失敗して、店長に怒鳴られたことがあったらしい。さらには毎日超過勤務で、しかも手当はつかない。必死に働いているのに認められないことがある。バックヤードでつい涙を流してしまうことがあったと話していた。
この話を聞いたときはかなり衝撃的だったが、母も若い僕らと同じよう、怒られたら凹むし、無論超過勤務は苦しい。それでも母は今もパートを続けている。「パート仲間がいるから」「家庭のためと思えば・・・」と言っていた。
「最近の若い子は弱い」と言われれば、「ハイハイ今の大人は強いんですね」と思ってしまいがちな僕だが、実際はそうではない。怒られれば、傷つけばつらいのは、世代が変わったって同じなのはよく考えれば当たり前なのだ。大人だって「弱い」のだ。
だとしたらどこに差があるのだろうか。
「我慢できるか、できないか」というところにあると今の段階では思う。
母もパートのおばちゃんも、怒られて傷ついても、超過勤務は嫌々言いながらも、「我慢して」続けている。一方でAさん、Bさん、僕らは、傷ついたら、苦しかったら、「我慢せずに」やめていく。少なくとも僕の目にはそう見える。
なぜ僕らは「我慢できない」のだろうか。
一つ考えられるのは「我慢する理由がないから」だと思う。僕らの世代は「つながりが希薄化しつつある」といわれたりする。「パート仲間とのつながり」とか、そういったものを重視しないから、あっさりつながりを断ち切ってしまうのかもしれない。
もう一つは、少し重なるけれど「我慢し続けることに意味はないと思っているから」。どうしても日本の未来は暗い、というイメージがある。自分が我慢してつらい思いをして社会を支えたところでどうにもならない。あと我慢し続けた結果「うつ病」になる人は多いと聞く。我慢する理由もない、我慢したところで社会は変わらない、それで自分が壊れるなら我慢しないほうがいい。
だから、僕らは「我慢できない」というよりは「我慢しない」と心の奥底で決めているのだ。それが打たれ弱い姿として表れてくるのかもしれない。
こう考えたら、若者の方が賢い気もしてくる。「我慢は美徳」であるかのように考えている大人なんかより、苦しまないで生きる道を選ぶ方がいい。
でも、どうだろう。みんなが「我慢しない」道を選ぶ社会になったら、きっとそれはそれで恐ろしいと思う。なんだか空っぽな部分がたくさんできて、社会が回らなくなりそうな、そんな気がする。誰かの「我慢しない」と誰かの「我慢しない」同士がぶつかっていくたびに、そこに空白ができていくように思える。そして空白の数が多くなりすぎて社会は崩壊していくのだ。
だから、最低限の「我慢」はしなくてはならないし、自分の心身が壊れない程度の「我慢」は何度か経験する必要があるというのが、僕の見解だ。だから怒られて傷ついても、続けなくてはいけない。場合によっては、少しの苦しさも耐えなければならない。
そのためには、「我慢できる」ようにならなくてはならない。たぶん大人は、「我慢」が苦しくならないよう、自分の中で「変換」をしているのだ。僕ら若い人も、身に付けていく必要があるのかもしれない。
さて、今回は「大人も変わらず弱い」として話を進めてきたが、今の若者のほうが「より傷つきやすい」という話もある。真相は今の僕にはわからないが、また何か考えることがあったら記してみたい。
「一体これは何目線なんだ・・・」と思いながら書いていたが、以上「最近の若い子」の一意見であることを留めておいておいてほしい。
*AさんやBさん、母の話は実際の話をもとに書いていますが、事実との一致を避け、敢えて少し脚色を加えさせていただきました。
「歌ってみた」はただの自己満?
結構前のことだけど、大学の友人がしていたこんな会話を思い出した。
「動画サイトの『歌ってみた』の動画、ほんと理解できんわwww」
「あんなのただの自己満やwww」
という感じの会話。
YouTube、ニコニコ動画でよくある「歌ってみた」の動画、みなさんはどう思っているだろうか。
僕の考えを先に申し上げてしまえば、
そうです、「歌ってみた」は自己満です。
でも待って、自己満って別に悪いことじゃないよね。
突然だけど、僕はカラオケが好きだ。一人で行くのも、数人で行くのも。
一番の理由はたぶん歌うことが好きだから、なんだけども、そもそも「なぜ歌うことが好きなのか」考えてみた。
要するに、歌を歌う、というのは一種の表現方法なんだと思う。
カラオケは誰かが作った歌を歌っているにすぎないけれど、その歌に対して自分が抱える思いがあるはず。好きな曲ならなおさら。自分が抱いているわけじゃなくても、歌を作った人の思いだとか、アニソンならアニメのキャラクターとの位置づけはどうとか。
そういった曲に対しての思いを各人それぞれ抱いており、それを歌うことで歌詞やメロディーに乗せて表現しているのだと思う。
少し話は逸れるが、表現方法といえば、どんなものが挙げられるだろうか。音楽のほかなら、絵だとかダンスだとか。自分は「詩」で表現をしている。いわゆる創作、芸術だ。表現方法はいくつもあるわけで、各々好きな方法で好きなように自分の思うところを表現できる。
こういった創作は、一人で打ち込むパターンもあると思うが、「みんなに見てもらう、共有する」パターンがほとんどなのではないか、と思う。絵にしても、ダンスにしても。
僕は最初詩を一人で黙々と書いていた。3年くらいはそうだったかもしれない。でも、あるとき誰かに見てもらいたいと思うようになり、コンクールに出したり、掲示板に投稿するようになった。
もちろん全員が全員そうなわけではないと思うが、一人で創作をしていれば、誰かに見てもらいたいと自然に思うようになるのではないかと思う。確かな理由はわからないけれど、運動部で必死に練習して「試合に出たい」と思う感覚に近いものがあるのではないだろうか。
話を元に戻そう。つまり、「歌ってみた」の投稿に至る経緯には、「自分の表現のしかたを誰かに見てもらいたい、共有したいと思うようになったから」、といういたって自然な流れがあるのだ。なんらおかしくない。
(ちなみに、「ただの自己満」と馬鹿にしてた彼らも、趣味を僕に熱く語ってきたり、創作したものを写真で見せてきたりする。)
そして、それは確かに自己満足かもしれない。でも、全くもって悪いものではないはずだ。
まず「自己満だ」だと批判する人には、「歌ってみた」を投稿している人が「歌がうまい自分見てみて、すごいでしょ」と思っている印象に見えるのだろうか。
確かにそれは痛々しいかもしれないが、表現を見せるという以上、そういった感情は少しくらい許容しても良いと思う。
歌手を目指す人にしても、画家にしても、詩人にしても、プロを目指すにはある程度の「自信」が必要だ。
自分の作品に自信がない人がどうしてプロを目指そうと思うのだろうか。作品に自信があるからこそ、CDを出して聞いてもらおうと思ったり、本を出そうと思ったりするはずだ。
その自信をもとに世に作品を送り出す。評価されればまた自信になりクオリティの向上にも結び付く。さらにあらゆる人の作品に触れることが刺激になる。
そしてもう一点、所詮誰もが自己満で生きている。
部活で頑張って練習して、優勝して嬉しい。テストで良い点を取るために頑張って勉強して良い成績を修めることができて嬉しい。就活で頑張って、入りたかった企業に入れて嬉しい。自分のために頑張って努力して、結果を出して成長して、自分が豊かになっていく感覚を味わう。これが人生の醍醐味だと思う。
誰かの役に立てて嬉しい、という他者貢献を通じて得る満足は「自己満」とは言えないのかもしれないが、他者も巻き込んで自分も満足できると捉えたらこれも「自己満」に入るのかもしれないと強引に解釈する。
たぶん「自己満」という言葉が悪い。自分だけが満足するという意味だろうけど、他者に危害を与えているわけじゃないなら悪いことではないはずなのに。
ええと…「歌ってみた」の話だった。
まとめると、「歌ってみた」は「誰かに見てもらいたい」という自然な思いから投稿されるものであり、表現方法の一つとして何ら悪いものではない。
そして、自己満ではあるが、そもそも自己満は悪いものではない。
というのが僕の考えだ。あくまでも個人の考えだけども。
ちなみに、「歌ってみた」について語ってきたけど、僕自身「歌ってみた」を投稿したことはない。
ただたまに、「カラオケ配信」にあこがれることがあるので、歌ってみた投稿者の気持ちがわかる、のかも。
意味のないことばっかりだ!
あけましておめでとうございます。昨年の11月以来の久しぶりのブログ更新。
ゼミで忙しくて全然更新できなかった、と言い訳をしておく。
ここ最近というか、前々から考えていることがあるので、今回はそのことについて記したい。
自分は教科の中で日本史が好きで得意だったのだが、その話をすると時折こんなことを言われる。
「歴史なんて勉強する意味なんかないよ。だから歴史は嫌い!」
日本史好きな自分にとって、こう言われるのは何だか悔しい。だけどもかつて反論できたことは一度もない。それは心のどこかで「歴史を勉強する意味はない」と思っているからなのかもしれない。
「歴史は意味あるもの」という話は度々聞く。大学の教授が「過去を知ることは大事。今成立が検討されているある法律だって、歴史を見たら成立させたらまずいってことはわかる!」と言っていた。要するに、「過去の失敗を学んで、それを繰り返さないようにするために」歴史を学ぶことが必要だ、というわけである。
でも、イマイチぴんと来ない。「だったら失敗したことだけ授業で教えればいいじゃないか」とか「じゃあ何でよくわからない古代の話から教えるんだ」とか思ってしまうからだ。「過去の失敗を学ぶ必要があるから」という理由は、歴史を学ばせたいがための強引な理由付けに思えてしまう。
だからか「意味ないじゃん!ただの暗記じゃん!歴史嫌い!」と投げ出してしまう人はきっと多い。ただ僕が最近思うようになったことがある。「意味がある、ないってそんなに重要なのだろうか」という疑問だ。
「意味がある」と考えるものだけに価値を見出そうとする人は多い。このことは大学に入って、授業を自分で選択する機会が増えることでより顕著になった気がしている。「この授業に意味を見出せないから」という理由で授業を選択しない人が自分の周りに多くいるのだ。
彼らは「意味があるものというのは役に立つもののことだ」と考えている。歴史なら「人生に役に立たないから意味がない」ということだろう。しかしながら、僕自身その考え方に違和感を感じる。
そもそも人生に役に立つってどんなことなんだろうか。例えば、歴史と同じ社会科目でも「公民」は社会情勢を知るうえで役に立つ。家庭科は生活していくうえで役に立つ。おそらく、人生に役に立つとは、生活していくうえで役に立つ知識が増えるということなのだろう。
でも、その「人生に役に立つ」ことだけを選んでいては「とてつもなく薄っぺらい人間」になってしまうのではないか、と僕は思う。「生活していくうえで役に立つ知識」だけが増えていくだけで、知識を活用する力だとか、考えて行動していく力は全くつかないのではないだろうか。
学校で勉強することは、一見「人生に役立ちそうじゃない」ことばかりだ。歴史だけじゃなく他教科においても。誰しもが「勉強することに意味はあるの?」と思ったことはあるだろう。
でも、学校の勉強はきっと知識を活用する力だとか、考えて行動していく力だとか、そういった力をつけていくものだと思う。歴史は、覚えた知識を整理し、それをいかに活用するか試される教科だ。
勉強とは、活用の仕方だとか、考え方だとか、そういった「脳内における考える過程」を鍛えるものだと思う。その過程はさまざまなパターンがあり、その異なるパターンを身に付けさせる意味での「5教科」だ。教育方針を決めている政府のお偉いさんも伊達じゃないはずなのだ。
「『脳内における考える過程』を鍛える」とは書いたものの、非常に言葉にするにはわかりづらい。しかも見えにくい、感じづらい部分だ。だからこそ、「勉強はこれを鍛えるためのものだ」と気づかれにくいのだと思う。
書いてきたように、そういったことでは勉強、歴史は意味のあるものなのかもしれない。でも、先にも書いた通り、意味があるかないかは、それほど重要ではないと僕は考える。
選択する場面というのは人生の中でめちゃくちゃあるわけだけど、どれが意味あるものになるか、意味のないものかというのはわかりっこないからだ。
「人生のためになる知識がつく」という見方は確かにわかりやすいけれど、正直ものすごい浅はかな見方だと思う。一方で、「『脳内における考える過程を鍛えるもの』はどれか」なんてわかるわけない。さらに言えば、実際考える過程が鍛えられたしても、その実感はたぶん薄い。
だから「役に立たないから意味がない」と放り投げず、とりあえず選んでみることが大切なのかなと思う。そしてその経験を経て使われる指標が「教養が増えた」とか「自分が豊かになった」とかいうやつだと思う。口に出すと「あいつ意識高い系やん」と思われてしまうので、心の中に留めておけばいいと思うけれども。
もちろん選択といっても、人生の分かれ道となる重要な2択を迫られている場合は別の話。
意味のないことばっかりだ。それは意味ばかり求めすぎてしまうから。amazarashiも言っています。(『空洞空洞』より)
何だか偉そうに書いてきたけど、結局僕は意味を求めすぎるのに疲れたから、こんな考え方をするようになったのである。断じて「勉強大好き人間」なわけではないことをここに記しておく。
今回はお勉強がらみの話になってしまったけれども、「意味のないこと」に関してはまた別の観点からも書きたいと思っている。今度は詩を絡めて。なるべく早いうちに書きたい。
『バーナード嬢曰く。』
最近中古漫画屋で買った漫画が、『バーナード嬢曰く。』という漫画だ。
施川ユウキ作。なぜこの漫画を知ったのか語ると長くなるので割愛する。
主人公の町田さわ子は、いつも図書室にいるが実は本を読んでいるふりをしているただの読書家気取り。そんな読書家気取りと本好きの遠藤や長谷川スミカ、ガチSFファンの神林しおりといった読書家メンバーの間で繰り広げられる日常が描かれる。「読書」がテーマのギャグマンガだ。全3巻。アニメ化もしている。
数々の名作、SF小説がネタにされている話がほとんど。読書家やSF好きはもちろん、「読書家気取り」の町田さわ子のボケで僕のようなそれほど本を読まない人でもそこそこ楽しめる。
……気がしていた。
読書好きの友人たちに囲まれているからには、町田さわ子は彼らに本を勧められる。こうして自然と「読書家気取り」から脱却していくのである。(そもそもそういう漫画だと思うが)
1巻ではまだまだグータラ読書家だった町田さわ子は、2巻からは難なく読書をする読書家女子へと成長していく。
先述の通り、僕はそれほど本を読まない。気まぐれで読んで月2のペースだ。だから、1巻での町田さわ子を「かわいらしいな」と眺めることができた。しかし2巻からはどうだろう。町田さわ子はみるみる本を読むようになり、明らかに自分以上に本を読むまでになっている。漫画のキャラではあるが、自分の中で何か焦りのようなものが疼き始めた。
そもそもこの漫画は「読書あるある」がメインのネタであり、いわば「読書家向け」の漫画なのだ。つまりあまり本を読まない自分向けではないことは確かであろう。では、なぜ自分はこの漫画を中古ではあるが購入するに至ったのだろうか。
それは自分が「読書家」に近づきたかったからだ。自分は今どちらかといえば町田さわ子に近い状態にあるといえる。だから町田さわ子のように、この漫画のキャラクターたちを通して、読書をするきっかけを得たかったのだ。最初この漫画を手に取ったときは「自分でも面白そう」だったけれど、変わっていく町田さわ子を見ていたら「読書のきっかけとしたい」と思うようになっていた。
遠藤や長谷川、神林たちはポンコツ町田さわ子にツッコミを入れるだけでなく、本の魅力も語ってくれる。そこで自分の読んでみたい本を見つけ、図書館で探して読んでみる、というのが僕のやりたいことなわけだ。
というわけで、先日早速図書館へと足を運んできた。手に取ったのは水嶋ヒロ(齋藤智裕)作の『KAGEROU』。かつて騒動に発展し、ある意味話題作となった小説だ。
『KAGEROU』を読むことに決めたのは画像90ページの神林のセリフ。詩を書く身からしてみれば、「書き上げた時の万能感と読み返した時の無力感」はすごくわかる。この漫画の下りからも『KAGEROU』がものすごく面白い小説ではないことはわかってしまうが、だからこそ読んでみたくなった。
『KAGEROU』は「頑張って作った感」のある比喩や言い回しがところどころにあり、文章はどこか素人っぽさが漂っていた。それでもそんな隠しきれない不器用さの中で、著者齋藤智裕は、何とかしてでもこの物語を通して「伝えたい思い、メッセージ」を伝えようとしていた。それが伝わってきた気がした。
『KAGEROU』は思いのほか面白かった。そして『バーナード嬢曰く。』で語られている『KAGEROU』の下りをもう一度読み返してみたが、『KAGEROU』について熱く語る神林の気持ちがよくわかった。
こんな感じで、これから『バーナード嬢曰く。』に登場する本を読んで、またこの漫画を読み返しては登場人物に共感する「読書家気取り」な行動をしていきたいと思う。たぶんそれは読書しないよりマシな気がするから。
ただ、なぜここまで「読書」にこだわる明確な理由は自分でもよくわからない。大人たちが「本を読め読め」いうからきっと読んどいたほうがいいから、とか詩を書くのによさそうだからとか、そんな理由な気がする。
とりあえず、読書家気取りを抜け出した町田さわ子にはなりたい。以上、「雨玉夕間曰く。」でした。