雨天結構 ~雨玉夕間の日記~

気ままに日常の出来事、感じたことを書いていきます。詩も載せます。

「最近の若い子は・・・」

先月、バイト先で起こった出来事だ。

同い年の21歳の子(仮にAさんとする)が、店長にキツく言われたことがきっかけで、翌日からバイトに来なくなってしまい、そのままやめてしまうということがあった。

 

ちょうどインフルエンザが流行していたときで、ほぼ毎日シフトに入っていたおばちゃんがインフルにかかってしまった。そこで店長がAさんに「もう少しシフト入れない?」とお願いしたらしい。Aさんはそれを断り、そのときに店長が「なんで協力してくれんのや??」と怒りっぽく言ってしまったのだ。

AさんからのLINEによれば、その店長の言葉でひどく傷ついたということだった。(Aさんにも多くシフトに入れない事情があった)それに加えて、以前シフトでもめたことが何度かあったり、本部の身勝手さに疲れたり、と我慢の限界に達していた。そして、やめることを決断したという。

 

バイト先では、パートのおばちゃんたちがこの話題を口にした。中には「店長がキツく言うから・・・」というおばちゃんもいたが、Aさんがやめたことに否定的なおばちゃんもいた。

「今人がいないときなんだから、なんで今やめるんだろう・・・」

「やっぱり今の子は、なんだかねえ・・・」

 

 

バイト先には少し年上の25歳の社員の人もいる(Bさんとする)。次はそのBさんにまつまる今日の出来事だ。

Aさんがやめた分を埋めるため、違う店舗に勤務するBさんが助っ人として駆り出されるようになった。そしてBさんは週4日3~4時間の超過勤務が発生するようになってしまう。それが半月ほど続いた今日、バイト先に行くと、Bさんのメモ書きが置いてあった。「シフトを減らしてもらいたい」というお願いの内容だったが、いくつかの理由も添えられていた。

少し鬱っぽくなったから、心身ともにきついから、家族に心配されているから……。

 

やはりパートのおばちゃんたちはこのメモのことに触れた。

「直接口で言うべきなのになあ」

「今の若い子はねえ・・・」

 

 

以上バイト先の話を書いたが、どうだろう。僕はおばちゃんたちを悪く言うつもりはないのだが、どちらかといえば、AさんやBさんの気持ちの方に寄り添ってしまう。理由は年が近いから、だろうか。年が近いから、AさんやBさんの気持ちがわかる。かく言う自分も、数年前の以前のバイト先で店長に怒鳴られて、どうしようもなくひどく落ち込んだという経験があったりする。

 

 

おばちゃんたちの「最近の若い子は・・・」に続く言葉は、「たるんでる」とか「しっかりしていない」だとか「甘ったるい」といったネガティブな言葉だ。ちなみに「これだからゆとり世代は・・・」みたいな言われ方もする。

今回のAさん、Bさんの話の場合は「最近の若い子は、弱い」だろうか。これは聞いた話だが、友人の大学に講演に来た人事の人が「最近の若者は怒られ慣れていない」と、若者の討たれ弱さを嘆いていたという。大人たちは今の若い子の「弱さ」に不満気なのだ。

 

しかしながらイマイチ、ピンとこなくて考えていたことがある。「弱い」っていうけれど、「なぜ弱いのか?」ということ。逆に、「なぜ大人たちは強いのか?」ということだ。

 

この疑問には「大人たちもかつては若者で、そのときは弱かったんだよ」という答えがまず考えられるが、「自分は若い頃もう少ししっかりしていたよ」と胸を張る大人が多いので、今回は大人たちの言い分を信用してみるとする。

 

疑問を考えるために、先ほどのAさんやBさんと同じようなシチュエーションに出くわしたら、大人はどう対処するのか、脳内でシミュレーションしてみたい。

もし店長に怒鳴られたら……。超過勤務が続いたら……。

 

考えていたら、自分に一番近い大人の存在を思い出した。母だ。

 

僕の母はある小売店パートで、仕事の話や愚痴をよく聞かされる。

母も仕事で失敗して、店長に怒鳴られたことがあったらしい。さらには毎日超過勤務で、しかも手当はつかない。必死に働いているのに認められないことがある。バックヤードでつい涙を流してしまうことがあったと話していた。

 

この話を聞いたときはかなり衝撃的だったが、母も若い僕らと同じよう、怒られたら凹むし、無論超過勤務は苦しい。それでも母は今もパートを続けている。「パート仲間がいるから」「家庭のためと思えば・・・」と言っていた。

 

 

「最近の若い子は弱い」と言われれば、「ハイハイ今の大人は強いんですね」と思ってしまいがちな僕だが、実際はそうではない。怒られれば、傷つけばつらいのは、世代が変わったって同じなのはよく考えれば当たり前なのだ。大人だって「弱い」のだ。

 

だとしたらどこに差があるのだろうか。

「我慢できるか、できないか」というところにあると今の段階では思う。

 

母もパートのおばちゃんも、怒られて傷ついても、超過勤務は嫌々言いながらも、「我慢して」続けている。一方でAさん、Bさん、僕らは、傷ついたら、苦しかったら、「我慢せずに」やめていく。少なくとも僕の目にはそう見える。

 

なぜ僕らは「我慢できない」のだろうか。

 

一つ考えられるのは「我慢する理由がないから」だと思う。僕らの世代は「つながりが希薄化しつつある」といわれたりする。「パート仲間とのつながり」とか、そういったものを重視しないから、あっさりつながりを断ち切ってしまうのかもしれない。

 

もう一つは、少し重なるけれど「我慢し続けることに意味はないと思っているから」。どうしても日本の未来は暗い、というイメージがある。自分が我慢してつらい思いをして社会を支えたところでどうにもならない。あと我慢し続けた結果「うつ病」になる人は多いと聞く。我慢する理由もない、我慢したところで社会は変わらない、それで自分が壊れるなら我慢しないほうがいい。

 

だから、僕らは「我慢できない」というよりは「我慢しない」と心の奥底で決めているのだ。それが打たれ弱い姿として表れてくるのかもしれない。

 

こう考えたら、若者の方が賢い気もしてくる。「我慢は美徳」であるかのように考えている大人なんかより、苦しまないで生きる道を選ぶ方がいい。

でも、どうだろう。みんなが「我慢しない」道を選ぶ社会になったら、きっとそれはそれで恐ろしいと思う。なんだか空っぽな部分がたくさんできて、社会が回らなくなりそうな、そんな気がする。誰かの「我慢しない」と誰かの「我慢しない」同士がぶつかっていくたびに、そこに空白ができていくように思える。そして空白の数が多くなりすぎて社会は崩壊していくのだ。

 

だから、最低限の「我慢」はしなくてはならないし、自分の心身が壊れない程度の「我慢」は何度か経験する必要があるというのが、僕の見解だ。だから怒られて傷ついても、続けなくてはいけない。場合によっては、少しの苦しさも耐えなければならない。

 

そのためには、「我慢できる」ようにならなくてはならない。たぶん大人は、「我慢」が苦しくならないよう、自分の中で「変換」をしているのだ。僕ら若い人も、身に付けていく必要があるのかもしれない。

 

 

さて、今回は「大人も変わらず弱い」として話を進めてきたが、今の若者のほうが「より傷つきやすい」という話もある。真相は今の僕にはわからないが、また何か考えることがあったら記してみたい。

「一体これは何目線なんだ・・・」と思いながら書いていたが、以上「最近の若い子」の一意見であることを留めておいておいてほしい。

 

 

 

 

*AさんやBさん、母の話は実際の話をもとに書いていますが、事実との一致を避け、敢えて少し脚色を加えさせていただきました。