言葉にできない言葉
テレビ番組を見ているとときどき、「この人のリアクション、なんだか嘘っぽいなー」と感じる芸能人がいる。大げさなリアクションをしている人。友人にもいる。もちろんその人に悪気はない。むしろ相手を喜ばせようとか、気を遣おうとか、そういった優しさからくるものなんじゃないかなと思う。もう少しリアクション押さえてもいいよ、とは思うけど、そんな優しさが好きだったりする。
と書いたが、自分もたぶんその「リアクションが嘘っぽい人」の類だと思われる。ただ、前述のようなタイプとは少し違う気がする。
自分の場合は、その原因は「ごまかし」だ。
例えば、アニメなり漫画なり勧められて、見て、感想を求められたとしよう。このとき自分の脳内(感覚的には心臓当たり)では作品の数々のシーンと共にいろいろな感情がグルグル混ざり合っている。ただ、この時点ではこの感情が何の感情か説明できないのだ。「すごい」とか「面白い」とかそう単純に形容しがたい何かが渦巻いている気がする。
恐らく、元は一つ一つ言葉にしやすい感情だったはずだ。しかし、物語が進むにつれて感情が増え、なぜかそれらがひっついたり、混ざり合ったりする。物語が終わったころには、言葉にできない「物体」として心臓に沈殿している、ような気がする。いろいろな色のを混ぜたらよくわからない色になる、あの感じをイメージしてもらえばわかりやすいかと思う。黒にはならない程度で色を何色か混ぜていただきたい。
つまりはこの状態で感想を求められてしまっても、僕は「何て言えばいいかわからない」のである。「わからない」と答えれば、理解度がたりない、ちゃんと見てない読んでないと思われるかもしれない。どう答えていいか迷っていたら、それはそれで相手に失礼かもしれない。それに何か感じたことがあるのは確かなのだから、一刻も早くそれを伝えたい。でもこの感情を何て言えばいいんだ……!
そして、心から自分が思っているかわからないようなことを言って、焦って「ごまかす」のだ。「すごかったよ」とか言ってみたり、「本当に心を動かされた」などと狙ってないのに大げさに言ってしまうこともある。そして、心から思っているかわからないことを言うわけなので、大抵相手にそれが伝わる。相手は「ふーん」もしくはうなずいて無言。きっと「嘘っぽいなこいつ」と思われていることであろう。
長々と書いてきたが、要するに自分は「言葉づくり」が下手糞なのである。思ったことを言葉にすることが苦手だ。議論、口喧嘩が弱いことは言うもでもない。頭の回転が遅いのかもしれないが、個人的には心臓と頭を繋ぐ神経に欠陥がある気がしてならない。「思ったこと」をうまく頭まで伝達できないのかなーなんて思ったりする。
でも最近は、口にして説明はできないが、ある感情を表す言葉としては完成できている、という仮説が立てられつつある。よくわからない色をした感情は、言葉にできていないわけではなく、話す一歩手前の言葉としては形作られているのだ。要するに、話し言葉とすると他人には通じないが、自分だけに通じる言葉ができている、ということだ。ややこしいが、「言葉にできない言葉」が形成されているのだ。相手に伝えるためには相手がわかるような言葉に変換してやる必要があり、これに非常に時間がかかるというわけだ。
「自分だけに通じる言葉」は自分にとってはきっと詩に近いものだと思う。この記事を書く前に詩を書いてブログに載せた。一応このブログのテーマと同じようなテーマで書いたので、「これが雨玉言語かー」と思って読んでみてほしい。ただ自分でも理解しきれない部分もあるので、「自分だけに通じる言葉」と言い切るのは怪しい気もするが。
さて、この言葉にできない感情、もしくは口にできない言葉として表現された感情は、時間が経つにつれ、次第に一般言語で表現できる形へと形作られていく。早ければその日のうちだが、長ければ1週間、それ以上とかかることもざらだ。「あのときこう言えば良かったのに、なんでこう言わなかったんだ!」と後悔しだしたら、それは一般言語として表現できる準備がようやく整ったサインであろう。それにしてもこの後悔が結構つらい。終わったことなのについつい引きずってしまう。そして「次こそは」と瞬時に感情を一般言語に形作ることを誓うのだ。
みなさんはどうであろうか。「思ったことをすぐ言えるタイプの人」はこの僕の例とは真逆だと思う。すごいうらやましい。「思ったことをすぐ言えないタイプの人」は言葉がすぐに製造できないから言えないのかもしれない。もしテレビの中、身の回りに「嘘っぽいリアクション」をする人がいたら、もしかしたら…と疑ってみるとその人を見る目がちょっと変わるかもしれない。
そして最後に、「思ったことをすぐ言えないタイプの人」は「自分だけに通じる言葉」が自分の中で作られている可能性を探ってほしい。難しい話だが、それを書き出してみると詩となるかもしれない。その言葉の並びが意外と美しかったりする。
夏休みの小旅行
大学の夏休みは2か月近くある。
有意義に過ごしたいと思ってはいるものの、ついついダラダラと過ごして1日を終えてしまう。そんな1日を終えてしまった暁には激しい虚無感に襲われる。そして「ああ、なんて最悪な1日だったんだ」と気が沈んだまま眠りにつくこととなる。大げさかもしれないが、僕はそういうタイプの人間なのだ。
だから「今年こそは……!」と旅行に行くことに決めた。
とはいえ、貧乏学生で金はない。うまい具合にバイトのシフトが1日おきに入っており、旅行に出かける暇はない。このままでは悲しい夏休みの再来である。
金がないなら節約すりゃあいい!暇がないなら日帰りにすりゃあいい!
そう自分に言い聞かせて、旅行に行くことを体に叩き込ませた。
旅行に出かけることは若干面倒くさいのである。でも「面倒だから」という理由で旅行に行くことをやめたら後悔と自己嫌悪に襲われるに違いない。そこで「金もないし、時間もないし」は「面倒だから」というだらしない理由を用いずに「旅行に行かない自分」を正当化する根拠となるので危険なのだ。上記のように体に叩き込ませることで、「面倒だが仕方ない、行くか」と重い腰を上げさせるのだ。
旅費に関しては「青春18きっぷ」を用いて旅することで節約した気になった。1万2千円程度で1枚5回分(1人なら5日分)使用権が与えられ、JRなら特急、新幹線を使わなければどこまでも行けてしまう優れものだ。ちなみに1回分は隣県へインターンシップへ行くのに消化した。このことを友人に話したら「もったいな、せめて隣の県行くのに使うのはやめとけ」と言われた。
次に日程だ。インターンシップやバイトのスケジュールとにらめっこし、8月29日、9月1日、9月10日を旅行の日として設定した。ちなみにすべてバイトの日に挟まれている。
こうして貧乏学生&キツキツスケジュール日帰り旅行計画が進められていった。
それにしても、やはり旅行は計画を立てている時が一番楽しい。個人的には現地にいる時よりも。これは共感できる方も多いと思う。
旅行には計画をしっかり立てる派と、計画は立てないぶらり旅派がいる。しかし今回は日帰りのため行きたいところをテンポよく回るため、綿密に計画を立てた。電車はこれに乗ってこの駅まで行って……。グーグルマップを使ってここまでは何分で行けるとか調べて……。計画が完成したらそれだけで旅行を終えたぐらいの達成感を味わえる。
この前読んだ最果タヒさんのエッセイに「料理はレシピを見ている時が一番幸せ」とあったが、きっと同じことだと思う。何事も空想、シミュレーションしているときが一番楽しいのだ。
しかしながら、あまりにも綿密に計画を組みすぎて、時間に追われて慌ただしい1日を過ごすことになることは、このときは知る由もなかった。ちょっと考えればわかりそうなことだけどね。
そして8月29日、第1回目の小旅行が決行されるわけである。この旅行記についてもブログのネタとして明日以降書いていきたいと思う。膨大なものになりそうだが、ネタにしばらく困らないのは嬉しいことだから良しとしよう。
ブログ、はじめました。
僕はエッセイが結構好きだ。漫画家、小説家、詩人、いろんな人のエッセイを読んできたけど、その人が経験の中で率直に、リアルに何を感じたか、それを読むことが好きなんだと思う。
もちろん人それぞれ経験することは違うけれど、その経験で感じることも人それぞれ。漫画や小説のストーリーの中で描かれるような登場人物が抱く感情とは違ったリアルさが面白い。
で結局何を言いたいかといえば、そんなエッセイを読んでたらブログを書きたくなったという話。好きなように書きたくなった。
そんなわけで、ブログ始めました。雨玉夕間と申します。詩を書いてます。詩人として名を残すことが夢です。
日常で何か感じたら、書きたくなったら、とりあえず書きたいと思います。
読んでくださる人にとってはつまらないかもしれませんが、のんびり、好きなように書いていくので、お付き合いいただけたら幸いです。どうぞよろしくお願いします。