雨天結構 ~雨玉夕間の日記~

気ままに日常の出来事、感じたことを書いていきます。詩も載せます。

意味のないことばっかりだ!

あけましておめでとうございます。昨年の11月以来の久しぶりのブログ更新。

ゼミで忙しくて全然更新できなかった、と言い訳をしておく。

ここ最近というか、前々から考えていることがあるので、今回はそのことについて記したい。

 

自分は教科の中で日本史が好きで得意だったのだが、その話をすると時折こんなことを言われる。

「歴史なんて勉強する意味なんかないよ。だから歴史は嫌い!」

 

日本史好きな自分にとって、こう言われるのは何だか悔しい。だけどもかつて反論できたことは一度もない。それは心のどこかで「歴史を勉強する意味はない」と思っているからなのかもしれない。

 

「歴史は意味あるもの」という話は度々聞く。大学の教授が「過去を知ることは大事。今成立が検討されているある法律だって、歴史を見たら成立させたらまずいってことはわかる!」と言っていた。要するに、「過去の失敗を学んで、それを繰り返さないようにするために」歴史を学ぶことが必要だ、というわけである。

でも、イマイチぴんと来ない。「だったら失敗したことだけ授業で教えればいいじゃないか」とか「じゃあ何でよくわからない古代の話から教えるんだ」とか思ってしまうからだ。「過去の失敗を学ぶ必要があるから」という理由は、歴史を学ばせたいがための強引な理由付けに思えてしまう。

 

だからか「意味ないじゃん!ただの暗記じゃん!歴史嫌い!」と投げ出してしまう人はきっと多い。ただ僕が最近思うようになったことがある。「意味がある、ないってそんなに重要なのだろうか」という疑問だ。

 

「意味がある」と考えるものだけに価値を見出そうとする人は多い。このことは大学に入って、授業を自分で選択する機会が増えることでより顕著になった気がしている。「この授業に意味を見出せないから」という理由で授業を選択しない人が自分の周りに多くいるのだ。

彼らは「意味があるものというのは役に立つもののことだ」と考えている。歴史なら「人生に役に立たないから意味がない」ということだろう。しかしながら、僕自身その考え方に違和感を感じる。

 

そもそも人生に役に立つってどんなことなんだろうか。例えば、歴史と同じ社会科目でも「公民」は社会情勢を知るうえで役に立つ。家庭科は生活していくうえで役に立つ。おそらく、人生に役に立つとは、生活していくうえで役に立つ知識が増えるということなのだろう。

 

でも、その「人生に役に立つ」ことだけを選んでいては「とてつもなく薄っぺらい人間」になってしまうのではないか、と僕は思う。「生活していくうえで役に立つ知識」だけが増えていくだけで、知識を活用する力だとか、考えて行動していく力は全くつかないのではないだろうか。

 

学校で勉強することは、一見「人生に役立ちそうじゃない」ことばかりだ。歴史だけじゃなく他教科においても。誰しもが「勉強することに意味はあるの?」と思ったことはあるだろう。

でも、学校の勉強はきっと知識を活用する力だとか、考えて行動していく力だとか、そういった力をつけていくものだと思う。歴史は、覚えた知識を整理し、それをいかに活用するか試される教科だ。

勉強とは、活用の仕方だとか、考え方だとか、そういった「脳内における考える過程」を鍛えるものだと思う。その過程はさまざまなパターンがあり、その異なるパターンを身に付けさせる意味での「5教科」だ。教育方針を決めている政府のお偉いさんも伊達じゃないはずなのだ。

「『脳内における考える過程』を鍛える」とは書いたものの、非常に言葉にするにはわかりづらい。しかも見えにくい、感じづらい部分だ。だからこそ、「勉強はこれを鍛えるためのものだ」と気づかれにくいのだと思う。

 

書いてきたように、そういったことでは勉強、歴史は意味のあるものなのかもしれない。でも、先にも書いた通り、意味があるかないかは、それほど重要ではないと僕は考える。

 

選択する場面というのは人生の中でめちゃくちゃあるわけだけど、どれが意味あるものになるか、意味のないものかというのはわかりっこないからだ。

「人生のためになる知識がつく」という見方は確かにわかりやすいけれど、正直ものすごい浅はかな見方だと思う。一方で、「『脳内における考える過程を鍛えるもの』はどれか」なんてわかるわけない。さらに言えば、実際考える過程が鍛えられたしても、その実感はたぶん薄い。

だから「役に立たないから意味がない」と放り投げず、とりあえず選んでみることが大切なのかなと思う。そしてその経験を経て使われる指標が「教養が増えた」とか「自分が豊かになった」とかいうやつだと思う。口に出すと「あいつ意識高い系やん」と思われてしまうので、心の中に留めておけばいいと思うけれども。

もちろん選択といっても、人生の分かれ道となる重要な2択を迫られている場合は別の話。

 

意味のないことばっかりだ。それは意味ばかり求めすぎてしまうから。amazarashiも言っています。(『空洞空洞』より)

何だか偉そうに書いてきたけど、結局僕は意味を求めすぎるのに疲れたから、こんな考え方をするようになったのである。断じて「勉強大好き人間」なわけではないことをここに記しておく。

 

今回はお勉強がらみの話になってしまったけれども、「意味のないこと」に関してはまた別の観点からも書きたいと思っている。今度は詩を絡めて。なるべく早いうちに書きたい。